2016年1月アーカイブ

幼稚園令(大橋直久)

1911(明治44)年小学校令施行規則の改正とともに幼稚園に関する規程が大幅に改められ、保育内容の要旨と保育時間の制限が除かれた。

幼稚園の自由化が認められ、保育時間の延長により託児所的機能を加えようとするものであった。

その後、幼稚園令制定に向けたフレーベル会・京阪神聯合保育会をはじめ各地に結成された保育関係団体の運動は全国的にくり広げられ、1925(大正14)年第50回帝国議会は建議案を採択、1926(大正15)年同令及び施行規則が勅令をもって制定された。

わが国最初の幼稚園についての独立法令である。

満3歳未満の幼児も事情により入園できるし、保育項目は遊戯・唱歌・観察・談話・手技等と5項目になった。

「等」ということばが入り、地域の実状に即した保育を保育者が工夫できる余地を残した。

保育時間の規定は除かれ、ここでも幼稚園を教育的機能のみでなく、すべての幼児に保護教育の機会を提供することを示している。

さらに保婦の免許状を設け、公立幼稚園の園長の資格を定めた。

この法令は戦後の改革まで用いられている。

大橋直久

頒栄幼稚園保栂伝習所

1887(明治20)年神戸基督教会の招きに応え来日したA.L.ハウの指導と、同婦人会の熱意と協力により1889(明治22)年10月開所、幼稚園は翌年4月定員50名で開園した。

1891(明治24)年第1回卒業生10名を出し、1935(昭和10)年頒栄保育専攻学校と改称、頒栄短期大学として今日に至っている。

名称の通り神の御栄えをあらわすため、保育の揺藍期から保母養成機関および基督教保育施設としての役割を果たしてきた。

大橋直久

愛染橋保育所(大橋直久)

1890(明治23)年岡山に孤児院を開きペスタロッチ主義の教育を実践していた石井十次は、1909(明治42)年に南大阪のスラム街に「岡山孤児院付属愛染橋保育所並に夜間学校」の看板を掲げた。

当初は10名くらいであったが、後に定員30名で1歳未満児から入所している。

父親はなく、母親が働いて何とかぎりぎりの生活を維持しているというような、悲惨な生活をしている家庭の子どもたちであった。

1918(大正7)年「財団法人石井記念愛染園」となり、その事業として幼稚園を併設した。

3歳未満児は保育所へ3歳以上は幼稚園という一貫した体系が、日本で初めて試みられたのである。

石井十次の意志を受け継いだ富田象吉の優れた働きにより、教育によって社会を改革しようとした十次の大望は達せられた。

大橋直久

保育4項目

国としてはじめて定められた「幼稚園保育及設備規程」は、保育内容を「遊戯・唱歌・談話・手技」とした。

従来の保育内容は、東京女子師範学校付属幼稚園を模範とし、地域やそれぞれの幼稚園で多少の特色をもって定められていた。

その中心はフレーベルの恩物で、同幼稚園の明治17年の改正で「会集・修身ノ話・庶物ノ話・木ノ積立・板排へ・箸排へ・環排へ・豆細工・珠繋ギ・紙織リ・紙摺ミ・紙刺シ・縫イ取リ・紙切リ・描キ方・数へ方・読ミ方・書キ方・唱歌・遊戯」となっていた。

この四項目では修身・庶物ノ話は談話に、木ノ積立以下の恩物は手技としてまとめられ、数へ方や読ミ書キが省かれた。

遊戯を筆頭に置いたことは幼児についての理解が進んだことのあらわれであろう。

また多様な姿で普及していた幼児教育のあり方を、一定の水準に保つうえで大きな意義があったといえる。

「保育四項目」は1926(大正15)年の幼稚園令発布まで約27年間、幼稚園の普及の中で実践された。

大橋直久

アニミズム(大橋直久)

J.ピアジェが子どもの思考の自己中心性の特徴として指摘した概念である。

子どもの精神発達が未熟であるためものにはすべて生命があるとみなしてしまうところからこのような考え方が生起する。

E.B.タイラーは文化人類学の立場から未開民族において外界のものを擬人化して、すべてのものが魂をもつと信じていることを指摘している。

発達的にみると、外界のすべてのものに生命を認める段階にはじまり、働くものだけの段階、自己の力で動くものの段階、そして動物だけの段階へと変化する。

しかし、これは必ずこれら四つの段階をふむものではなく、時には段階が逆転したり、とびこしたりする。

大橋直久

概念形成

概念とは、個々の事象から共通の特性を抽象して、一定の事物をあらわすことである。

概念形成は、発達段階に応じた学習によっており、特定の段階を経て個人が有する概念体系を確立していくのである。

J.ピァジェは、数、空間、量などの概念形成について発達的研究を行い、「保存」という仮説を出している。

また概念形成については実験心理学の立場、行動主義心理学の立場、認知論的立場から理論化が試みられている。

たとえば、行動主義の立場からM.バウムは概念形成を刺激一反応の強化とみる。

また認知論の立場から、J.S.ブルーナーは、概念形成の過程で被験者がどのような仮説をもちどのようなストラテジー(方略)をもって概念化が行われるかを検討している。

大橋直久

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