愛染橋保育所(大橋直久)

1890(明治23)年岡山に孤児院を開きペスタロッチ主義の教育を実践していた石井十次は、1909(明治42)年に南大阪のスラム街に「岡山孤児院付属愛染橋保育所並に夜間学校」の看板を掲げた。

当初は10名くらいであったが、後に定員30名で1歳未満児から入所している。

父親はなく、母親が働いて何とかぎりぎりの生活を維持しているというような、悲惨な生活をしている家庭の子どもたちであった。

1918(大正7)年「財団法人石井記念愛染園」となり、その事業として幼稚園を併設した。

3歳未満児は保育所へ3歳以上は幼稚園という一貫した体系が、日本で初めて試みられたのである。

石井十次の意志を受け継いだ富田象吉の優れた働きにより、教育によって社会を改革しようとした十次の大望は達せられた。

大橋直久

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このページは、-が2016年1月20日 16:55に書いたブログ記事です。

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