第6チャクラ〈アージュニャー〉をひと言でいえば、"この世のあらゆるものを「客観的」にとらえる存在"ということになります。
あらゆるものとは、心の動き、身体の感覚、皮ふの外側にあるものすべてという意味です。
「お腹がすいた」という空腹感を、たとえば遠くの山を眺めるのと同じような感覚で意識するi家のまわりの見慣れた風景に、はじめて接するような気持ちで接してみる こういった感覚です。
そのためには、いつも使っているのと同じ目で見ていては、なかなか客観的にものごとを見ることはできません。
そこで「第3の目」である、アージュニャーの存在が必要になります。
アージュニャーは、見るという感覚から目の付近にありますが、それとは若干離れている「眉間」の少し上のあたりに位置します。
仏像などによく見られる眉間の点も、あらゆるものを超越して見守る視線11第3の目を表すもので、アージュニャーの位置と符合するものです。
ものごとを客観的に見る人は、ともすれば冷たく味気ない人物としてとらえられがちです。
このアージュニャーについても、冷徹な理性をイメージした人が多いかもしれません。
しかし、「客観的に見る」ということはどんなことなのか、もう少し深く考えてみましょう。
客観視できていないということは、意識を向ける対象の中に、自分がどっぷりと浸かりきっていることを意味します。
対象と同化、あるいは距離が近すぎて視野も狭くなり、かえってよく見えなくなっている状態。
長いつきあいの恋人同士が、空気のような関係になることで、お互いに思いやりを持てなくなっているような、そんな状態です。
対象から距離をおくことで、日常の関係では見えないものに気づくことはよくあります。
しばしば倦怠期の恋人たちが「少し距離をおいてみようか」と考えるのは、なかなか建設的な解決法といえるでしょう。
距離をおくからこそ、改めて相手の「あり難さ」に気づき、新鮮な気持ちで相手を意識し、優しさをとり戻せるようになる。
また、距離があるからこそ大きな視野で相手を見守り、ちっぽけな感情に振り回されることなく、優しい気持ちになれる。これがアージュニャーのスタンスです。
大橋直久